おはようございます、
こんにちは、
こんばんは。
はじめまして。
自信の無い自分から卒業し自分をもっと好きになる
生きづらさ解消カウンセラーのケイコです。
私の事を知って下さった方へ向けて、
自己紹介をさせて下さい。
お話を聞いたり、相談を持ちかけて頂く事を、
20年以上続けてきました。
あなたにだから話せるんだけど…、
ケイコさんが居てくれるから…、
嬉しい言葉をたくさんたくさん頂きました。
明確に人の命を救えた事もありました。
他人に迷惑をかけ、不快な思いをさせてきた私が、
その所為で自分も苦しめて、
負のスパイラルにド嵌りしていた私が、
正しく自己肯定感を育む事で、
少しずつ人生の生きづらさを削ぎ落していく事ができました。
まだ今でも落ち込む事はありますが、
全くの暗闇の中でもがき苦しんで、
自分も他人も傷付ける事で更に自分を苦しめて、
そんな自分に相応しいのは不幸なんだと、
勝手に作った贖罪を胸に、死ぬ時だけを救いに生きるような、
そんな悪癖はすっかり無くなりました。
今では、
かつての私のように生きづらさを抱えて苦しむ人を、
サポートする側に回る活動をさせて頂いています。
自分でも不思議な縁だなぁ、と今でも時々思います。
私が、どんな風にして、
自己肯定感の低さに気が付いて、
正しく自己肯定感を育む事の大切さに気付いて、
生きづらさを解消する専門家になるに至ったのか。
最後まで読んでいただけたら、とっても嬉しいです。
生きづらい人生を生きてきた
1-1.幼少期~
実は、あまり小さい頃の記憶が鮮明にありません。
あったとしても曖昧な部分や事実誤認があります。
生まれて初めてカウンセリングを受けた時に、
あまりにも辛い記憶で忘れているのかもしれない、
と説明されました。
真偽の程はわかりませんが、
あまり良い生育環境でなかった事は確かです。
薄っすら記憶にあるのは、
母の辛そうな顔、泣き声、
父の暴言、兄や私にすら向けられる暴力、
酔っ払って帰ってきた父の吐物を泣きながら処理する私。
母が夜勤に行っている間、
父の暴力から逃げようと家を飛び出したのは、
確か小学生の頃だったと思います。
玄関の鍵を閉められてしまい、
その当時、暗闇がとても怖かった私は、
恐怖と不安でパニックになりそうになりがら、
必死に考えて気付いたのです。
夜が怖くて何がいちばん困るの?
死んじゃう事。
今、私は別に死んじゃっても良いじゃん。
だって、こんなに辛いんだから。
そうか、私は死んじゃっても良いんだ。
なら、夜が怖い事はないよね。
小学生にしてそんな事を考えていました。
生活費も全て母が看護師の仕事で賄っていたので、
当然ながら当時の母に肉体的・精神的な余裕などなく、
私達に強く当たる事も多くありました。
この頃、曖昧なんですが多分中学生で、
1回目の自殺未遂をします。
変な所だけ記憶が鮮明で、
化学の実験に使った薬物を
「先生、これ飲んだら死んじゃう?」
と訊いて、
「死んじゃうから飲んじゃダメだぞ」
と答えてもらったのがとても印象的でした。
ああ、これで死ねるんだ。
安心した私は、こっそり薬品を持って帰りました。
いつでも死ねる、と思えば不思議なもので少し前向きにもなれたのですが、
そんな気分も数時間と持たず、上下に振れやすい思春期の感情の赴くまま、
母と口論になった直後に、その薬品を躊躇なく飲んでしまったのでした。
結果的には致死量には全く至らずに、
ただただ苦しくて風呂場で吐き戻す私を、
疲れ切った冷たい目で見ていた母が居たような気がするのですが、
この記憶は定かではありません。
父や母が仲睦まじく、
兄や私を連れて家族で旅行に出かけた時、
楽しくてもう1泊したい!と駄々こねたら叶えてくれた事、
目の前で上がる花火を部屋から見れる、とっても高級な旅館に皆で泊まれた事、
運動会に母や父、父の仕事仲間達が駆けつけて皆で応援にきてくれた事、
そんな嬉しかったり楽しかったりする記憶があるからこそ、
何がどうなって今こんな地獄にいるのかが子供心に分からず、
とても苦しかったのはイメージとして記憶に残っています。
とはいえ、
私の記憶にない小さな頃から父の問題行動は度々起こっていたようで、
そのような養育環境で育った私は、
幼稚園に行っている時から、
私は自分の欲しい玩具に手を伸ばしていても、他の子がそれに手を伸ばせば
さっと手を引っ込めるような子供だったそうです。
この時点できっと私は、
愛着を上手く育めずに自己肯定感も低くなり、
対人関係を上手く築く事ができる土台を、
作り損ねてしまったんですね。
このような家庭での苦しさは、両親が離婚するまで続きました。
1-2.中学高校時代
両親が離婚した事で、家庭での辛さは減った筈でした。
ですが、思春期真っ只中、
1個上の兄の奔放さを自分の正義感でジャッジする私は、
当然ながら兄とは不仲に、
母は兄の不登校に掛かりっきりで、
自分は母にも愛されてないんだ、という絶望を感じながら、
いつしかその自分の惨めさに蓋をして見ない振りをする術を身に付けました。
高校の授業がつまらないと思えば途中で勝手に帰ってしまったり、
バイトをしてお金を稼いで、
今では考えられない使い方で使い切ってしまうというような高校時代を過ごし、
気の合う友達とだけ一緒に行動して、
少しでも気が合わないと知れれば、一切関わらなくなってしまう、
0か100か、の人間関係を築きます。
自分が駄目だから母にも愛されないんだと自分を責め、
自分が駄目だ、悪いんだ、無価値なんだと思い知る程にそれに堪え切れず、
両親にすら愛されなかった自分の一切を受け入れられずに、
私はそもそも望んでいない、
私が相手を気に入らないなら無視する、
それでも声掛けてくる子だけが友達だ、
等というように友人を試し、歪んだ価値観で見る事で、
何とか自分を保てていたのです。
当然ながら、こんな考えの私に友達ができる筈はない……、
と思うのですが、
不思議な事に、今でも続いている友達はこの頃の友達だったりするのです。
人間の不思議さには、いつも驚かされます。
1-3.大学~社会人生活
歪んだ価値観と人間性を持つ私は、
一度大学受験に失敗して浪人生活を一年過ごす事で更に自分の無価値観を増して、
大学に進学します。
高校よりもドライな大学生活では、
自分から関わっていかなければ良好な人間関係など築けません。
国家試験合格を目指していたので授業にはしっかりと出席しながらも、
授業を休んで皆で楽しく遊んでいる人達の事を実は羨ましがりながら、
本当は仲間に入りたいのに拒絶が怖くて入ろうとせず、他人を羨むばかりで、
仲良くなれるきっかけだったかもしれない、
「ノート貸して」
の言葉も、やっかみ100%でバッサリ切り捨てる私に、
当然の事ながら友人は出来ませんでした。
初めてできた恋人とも上手くいかず、
学校での人間関係も相変わらず上手く築けない。
自分が望む自分とは掛け離れた「駄目な自分」を見ない振りするのも限界に、
この頃、またも衝動的に2回目の自殺未遂をします。
自分が基本的に思慮が足りない性格なんだとは、この時点では気付けませんでした。
人間的にはほとんど成長せずに大学生活を終え、
今度は責任という大きな物が圧し掛かってくる社会人生活をスタートさせます。
色んな事がありました。
初めて知る事ばかりな中、現代的とは全く言えない根性論的な新人教育、
人の命を預かるプレッシャー、大変な事、辛い事、正直誰かと分かち合いたかったです。
ですが、容姿にもコンプレックスを持つ私は、
物凄く可愛い同期の子2人にも親近感を覚える事ができず、
細くて小さくて可愛いのに何でも上手くやれる頭の良い同期に嫉妬し、
今の私が思っても「なかなかだぞ」と首を傾げるような上司の下で、
それでも意地でも3年間は我慢しなきゃ、と、歯を食いしばり、
上司にも同僚にも強烈に煙たがられているのを実感しながらも、
若い故の正義感を振りかざして「私は正しい」と無理矢理頑張った所為で、
母が看護部長として勤める病院にまず入院した際、
「職員が喪服を用意した」と言われる程の、
薬の投与があと1日遅かったら助からなかったとされるような、
生存確率1/3、生き延びても重い後遺症が残る確率1/3、死亡確率1/3、
という、ストレス性の重い病気に掛かってしまったんです。
1-4.転職・結婚・抑鬱
奇跡的に後遺症もなく生き延びる事ができた私は、1年間ほどリハビリをして社会復帰を果たすも、
心の問題からは目を背けたままなので自分の根本は何も変われずに、
人を試すような事はしなくなりましたが、
人間関係を上手く築けないモヤモヤを抱え続けて、生きづらい日々を過ごしました。
劇的な変化は起きないものの、
真綿で首を絞められるような慢性的な不安感に苛まれ、
その不快感と恐怖心に駆られて、
高校時代を共に過ごした親友ですら切り捨てました。
どんどん狭くなる交友関係の中で、
縁あって知り合った人と長く付き合うも、
結婚に何の理想も持てなかった私は、
何となくダラダラと結婚を引き伸ばして、
結婚を決意したらしたで、
子供が苦手だと思うのに、
「子供を産まないなら女である意味がない」
という母の価値観を植え付けられていた私は、
自分の心と向き合うというよりただタイムリミットに追われて妊活を始めるも、
たくさんのお金をかけても子供が出来ずに大きなストレスを抱えます。
更に仕事においても、
恐ろしい程に入れ替わりの激しい「ブラック」な環境で、
人数も少なく、ギリギリの中で何とか仕事を回しながら、
正義感や理想が無駄に高い私のストレスは極限になる中で、
自分は決して悪口や陰口を言わないのだから良いだろうと、
自分が態度で示していた悪意を全く考慮せず、
自分があからさまに嫌っていた人に公然と激しく罵倒された事も相俟って、
仕事が出来なくなるほどの、
抑鬱状態に陥ってしまうのでした。
なぜ私が生きづらさ解消カウンセラーになろうと思ったのか
2-1.自分の心に初めて向き合う
抑鬱状態に陥って仕事を辞め、初めて自分の内面に向き合いました。
これまで色んな経験をして、同じような事、一見すると違うけど実は根本が似てる事、
色々でしたが、実は心の中では薄々分かっていたのです。
兄と不仲になった時も、
母の愛情を疑った時も、
友人と呼べる人が少ない事も、
人間関係を上手く築けない事も、
全部、環境の所為にしたり、酷い上司の所為にしたりしていましたが、
ホントは自分に原因があったんだと。
良い悪いではなく、原因が自分にある。
そんな風に気付かせてくれたのは、
生まれて初めて受けたカウンセリングでの体験と、
もう1人、私に生きる意味や幸せとは何か、を教えてくれる、
メンター(:良き指導者)の存在でした。
2-2.自分の生き方について考え続けていた
これまで長く生きづらい人生を歩んできて、
自分の内面を見る勇気はなかったものの、
自分の生き方については、考えるきっかけがありました。
2001年9月11日、アメリカ同時多発テロ事件、この当時は大学生でした。
そして、2011年3月11日、東日本大震災。
この時はもう社会人で、職場に被害が出ないよう、3階から1階まで走って危険な薬品を入れたタンクが倒れないように必死で支えていた事を覚えています。
これ等の出来事をきっかけに、
社会の事、この国の事、世界の情勢、
人間が生きるという事、幸せとは何なのか?
そんな事を考えるようになりました。
様々な評論家の意見を聞き、講演会などにも足を運び、
社会について世界について人間についての学びを深めていく事は、
好きで、面白くて、ずっと続けていたのです。
このおかげで自己肯定感ゼロだった頃の私でも、
多くの方の相談にのらせて頂く中で、
「助かった」「ありがとう」と
感謝の言葉を頂ける事が数多くあったのかもしれません。
そして自分の中にある、経験や価値が財産であるんだと気付き、
子供を産む事が出来ないと分かった今は尚の事、
自分の生きる理由、ミッションを持って生きたいと強く思うようになりました。
これまで私が聞いた言葉たちの中で、見てきた笑顔の中で、
いちばん嬉しくて、数も多くて、幸せを感じられたのは、
お話を聞いて、お話させて頂いて、
逆に私がいただいた笑顔や言葉たち。
私自身が生きづらく、辛い日々を送って人も自分も傷付けて、
死んでしまいたいと思い悩んだ夜を何度も超えてきて、
カウンセラーさんやメンターとの出会いでその地獄から抜け出せた経験こそが、
同じように苦しむ人に対してできる事なんだと、
それが私が人のためにできる、
多分いちばん数が多くて、いちばん大きな事なんだと、
そんな風に考えた私は、
長く生きづらかった人生を乗り越えた経験と、
7桁の自己投資を重ねて得た学び、気付きを臨床20年以上の実績と合わせて人に寄り添う、
生きづらさ解消カウンセラーとなりました。
2-3.ミッション
自分が抑鬱状態に陥った時、
日程的な事情で色んなカウンセラーさんとお話させて頂きました。
その時に思ったのが、心理カウンセラーさんというのは本当に人それぞれで、
やっぱり人間である以上、相性の良い悪いは必ずある事。
そして、心理学やカウンセリングを勉強するようになって、
日本人は幸福感を感じられない人が多いのに、
カウンセリングを利用する人が物凄く少ない事も知りました。
心の問題、心理学、愛着だったり自己肯定感だったり人間関係の傾向、
この辺は学校で教えても良いような項目だと思うのに、
皆が皆、社会で学べとばかりに放り出されるので、
私に限らず、生きづらさを感じている人は少なくないと思います。
今の自分で考えても、なかなかのモノ(笑)だと思う過去の私でも、
お話をしたら「救われる」と感謝を向けてくれた人が居た事は私の救いでもあり、
同時に、私の可能性の証左でもあります。
こんな私でも、合う人が必ず居て、私と話す事で救われる人がいる。
私のミッションは、
生きづらさを抱えた人全てが、自分に合う人の助けを得て生きづらさを解消できる事。
本当は恵まれている筈の日本人が、その幸せに気付いて、誇りを取り戻す事。
この2点のお手伝いを全力でする事です。
私を知ってもらって、私に合う人の生きづらさを全力で解消させて頂き、
その人が幸せになる事で、その人を大事に思う人が幸せになる。
自分の生きづらさがなくなって、他人の幸せのために行動できるようになる。
この感覚が、
身近な所は個人から、家庭に広がり、地域や職場など、コミュニティに広がり、
日本中に、世界中に広がってくれたら、
本当の意味で、この世界は平和になるんじゃないでしょうか。
そんな世界が見たくて、日々活動しております。
長く読んでいただき、ありがとうございました。